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Cauvineの絵と詩

藤崎孝敏の絵と詩

摘まれた花 50M

 

モンマルトルに居着いてもう永い。
どんなに一ヶ所に永く住みついたとしても、いつも旅の途中だという感覚から逃れることはない。
また、そう努力することもない。

 

いつも自分が今、立っている鋪道から去る日が、そのうち来るだろうことを感じて暮らしている。
いや、暮らしなどというものさえ、ぼくには縁遠い。ぼくには生活を営むという能力がない。
ときおりそういうものに憧れたりもするが、憧れはいつも彼方にあって眺めるばかりになる。
 

モンマルトルにはぼくの予想もつかない生活の悲哀が通りの片隅に、カフェのテラスに、
あちこちに住みついている。
ときおり、ぼくは縮こまり、ひからびたその魂をテーブルの上において、
じっと眺めたり、なぜまわしたり、少しころがしたりしてみる。
 

9月ともなれば、カフェ・ナジ−ルからの夕暮れが、金色のビールの中に住み着く。
この淀みの中に喜びと悲しみが重なり合い、泡となって上昇してくる。
ぼくは少しずつそれを飲みほす。
 

思い出すということは眺めることだ。しかし、時に人はそれに触れてしまう。
触れた指を離すことができず、またこの街の人々は暮らしてしまう。
あぁ、なんということだろう。
                                                                       Cauvine



 絵具皿の静物

日が暮れてゆく
吐血する空を 今日の日が沈んでゆく
私の吐息の中を 灰色の鳥が抜けてゆく
立ち並ぶ人々のような
煙突が遥か彼方を見送っている
今宵もまた 私の疎ましい
そして懐かしい思いが
深く沈んでゆく
                                           Cauvine
    

待つ人

夜の沈黙に我一人
煙草の煙 ゆらゆりと
何処迄ゆくや部屋抜けて
懐かしき痛みの身に触れて
軋む瞳は彷徨える
夜の沈黙のわが想い
煙草の煙のごとく有れ

Cauvine
 

  

 

   私の過ぎし日のパリは花の都であった 花束をたずさえたのは私であった 幸福と悲哀がブーケであった

人々が過ぎる鋪道に私はたたずんだ  彼らは 私が過ぎゆく風だ思った 私は まことたたずむ風であった Cauvine